2012年4月12日木曜日

日刊競馬で振り返る名馬 - テンポイント(1977年・第22回有馬記念)


数奇な血のドラマ
 寺山修司とテンポイント

 競争成績ではトウショウボーイと6度対戦して4度先着を許しているように、分が悪かったテンポイントは、ボーイが太陽だとするなら光と影を持つ月だった。そのテンポイントが多くの人の心に残っているのは、もちろん秀でた競争能力と同時に、その数奇な血のドラマと、悲劇性を詠んだ寺山修司の文章の力だと思うのである。
 私が競馬にのめり込んだ1967年前後には虫明亜呂無のクリスタルのような美意識と、言葉の魔術師・寺山修司のセンチメンタリズムによる"もうひとつの競馬"があったのだ。私たちは馬券とは別の虚構に酔いしれ、競馬に引きずり込まれていったのだった。どんな緻密な論理であろうと、一瞬のうちに結果によって崩れ去ることの多い、馬券に集約される後追い理論。こんな浅薄な文章が中心の今の競� �ファンはなんと不幸なことだろう。

◎伝説の馬デビュー
 1975年8月17日。スタンドから見える風景は空と海と競馬場だけの函館でテンポイントはデビューした。後続を10馬身置き去りにする芝1000m58秒8のレコードだった。真夏の太陽が燦々と降り注ぎ、空と海の青、馬場の緑が鮮やかだった。それから3ヵ月後のもみじ賞(京都・芝1400)でも9馬身差の独走だった。
 ちなみに、菊花賞観戦のため京都競馬場にいた私は衝撃的なテンポイントの走りを2戦とも目撃していた。そして母ワカクモの名に心が騒いだことを記憶しているのである。
 西の3歳(旧表記)No.1を決める不良馬場の阪神3歳Sでも日の出の勢いで7馬身差のワンサイド勝ちを決めれば、西の競馬ファンはテンポイントがクラシックを勝つことを確信するのである。

◎当時の競馬状況
 1975年といえば、まだ馬券や放送が東西に分かれていて、ファンや競馬サークルには東西対抗の意識の強い時代だったのである。前3年のクラシック戦線を見ていただきたい。


1984年のアーカイブトップ250曲

桜花賞=73年ニットウチドリ、74年タカエノカオリ、75年テスコガビー。
皐月賞=73年ハイセイコー、74年キタノカチドキ、75年カブラヤオー。
オークス=73年ナスノチグサ、74年トウコウエルザ、75年テスコガビー。
ダービー=73年タケホープ、74年コーネルランサー、75年カブラヤオー。
菊花賞=73年タケホープ、74年キタノカチドキ、75年コクサイプリンス。

 前3年でクラシックを制した関西馬は1頭だけ、三冠確実と言われたキタノカチドキだけなのである。しかも、そのキタノカチドキもダービーは3着だった。関西ファンにとって、ダービー制覇は阪神タイガースの優勝と同じか、いや、お金が絡んでいるだけにそれ以上の悲願だったのである。
 年が明け、いよいよクラシックの足音が近づく2月15日の東京4歳S(東京・芝1800)。テンポイントは当時としては異例の早さで関東に遠征したのである。後にダービー馬となるクライムカイザーを半馬身降し、3月28日のスプリングS(中山・芝1800)でもメジロサガミを差して5連勝。西のファンはもとより、東でもワカクモの仔ゆえに、古いファンはテンポイントに肩入れしたのである。

◎幽霊が出た
 ここらでテンポイントを語るうえで避けて通れない血のドラマ、母のことに触れないわけにはいかないだろう。
 1952年の桜花賞2着馬クモワカは不治の病である伝貧(馬伝染性貧血=1960年代まで確実に診断する方法がなかった。1952年発症9029頭。最近10年は0)と診断され、薬殺処分の命令が出されたのである。しかし、馬主と厩務員など関係者はクモワカを隠し、数年後に別の名前で登録し、軽種牡馬協会との長い裁判の結果、生きている事実を持って勝訴したのである。死んだはずの"幽霊"クモワカ(丘高)から生まれたのがワカクモ。ワカクモは1966年の桜花賞馬になって、二重の意味で母の無念を晴らしたのである。そのワカクモの仔がテンポイントなのである。寺山修司だけではなく、1頭のサラブレッドが誕生するまで� ��人間ドラマが多くのファンの心を捉えたのは、当然といえば当然だっただろう。


私の子供はどこですか?

◎無冠で終えた1976年
 思えばこのころのテンポイントは太陽の恵みを一身に受けていたのだった。テンポイントが5連勝でスプリグSを制し、頂点に立った1週間前に、東のトウショウボーイは特別を勝って3連勝。両馬は皐月賞へ向かうことになったのである。
 1976年4月25日。東西の両雄は生涯に6度対決するが、初めて顔を合わせたのがこの皐月賞だった。テンポイントの単勝支持率40%。トウショウボーイは28%。結果は5馬身差でテンポイントは春のクラシックの主役をトウショウボーイに譲ったのだった。
 5月30日のダービーではトウショウボーイ45%、テンポイント20%。単勝支持率は入れ替わっていた。テンポイントにとって、初めての、そして生涯ただ1度の掲示板に載ることのない7着ゴールだった。レース後外傷と骨折が判明し� �いる。皐月賞→ダービーの2戦、テンポイントの馬体が今も私の記憶の中に鮮明に残っている。石川喬司さんが「玉三郎」と称したように、カイバ食いが細くガレて冴えない弱々しい体つきだったのである。毛色も病み上がりのような、薄い栗毛であり、完調には程遠い状態だったと言っていいだろう。
 それから4ヵ月後の10月17日、京都大賞典でのパドックで見たテンポイントは骨折も癒えプラス4キロとはいえ、筋骨隆々。春とは毛色や筋肉の付き方ががまるで違っていた。これがあの玉三郎か!テレビのモニターに映る姿に驚いたものである。このレースは古馬相手の試走ということもあって3着止まりではあったが…。
 11月14日の菊花賞ではゴール前でトウショウボーイをねじ伏せている。ただ、勝ったのは重馬場の中を� �頭だけインを衝いたグリーングラスだった。
 12月19日の有馬記念ではトウショウボーイのレコードに0秒2差2着。関西ファンとオールドファンの熱狂的な支持を受けながら無冠で4歳を終えるのである。ここまでの成績は重賞3勝、GI2着3度で通算〔5.3.1.1〕。


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◎10ポイントが初号活字へ
 1977年2月13日京都記念、3月27日鳴尾記念、4月29日天皇賞と3連勝。5歳を迎えたテンポイントは心身ともに完成されたと言っていいだろう。たしかに6月5日宝塚記念では休養明けのトウショウボーイに屈したが、2200mはあちらの土俵。この後夏を休養した10月16日京都大賞典、11月12日オープンを連勝。12月18日有馬記念に駒を進めるのである。
 この有馬記念では5度対戦して4度先着を許しているトウショウボーイと最後の対決となることが決まっていた。トウショウボーイが種牡馬として引退の花道を飾るのか、それともテンポイントがまとめて借りを返すのか…。
 1番人気はテンポイント(単勝支持率38%)、トウショウボーイが2番人気(34%)だった。
 レースは終始トウショウボーイにテンポイントが絡み、内� �外へ、緩急の変化に富んだ2頭だけの競馬だった。結果的には第三の男グリーングラスが半馬身差まで迫っていたが、レースを見ていた人の90%はテンポイントとトウショウボーイの攻防に息を詰めていたに違いない。テンポイントは3/4差で1977年の頂点に立ったのである。

寺山修司の優駿・観戦記


◎絶頂から奈落へ
 1978年は1月5日の東京・金杯が雪でダート変更になったように、寒波の押し寄せた年明けだった。1月22日の日経新春杯(京都・芝2400)も雪景色で寒い日だった。海外遠征が決まっていたテンポイントの壮行レースに5万人を超えるファンが集まった。66・5キロのハンデを背負い、テンポイントはゆったりと流していた。他馬とは脚色が違う。四角を回り、さあ仕掛けるぞ! 誰もがそう思った瞬間だった。乾いた音が聞こえたような気が今でもする。枯れた芝、凍てつくような馬場に1頭だけ流星の栗毛馬が取り残されていた。
 幽霊の末裔の歓喜を神が許さなかったのか? それとも、呪われた血が祝福の嵐に逆流したか? あるいは66・5キロを課したハンデキャッパーへの警告だったのか…。トウショウボーイという太陽が 沈み、代わりにテンポイントが真上にのぼりつめた瞬間、凍てつく月になってしまったのである。日経新春杯での単勝支持率57%。ストップ・ザ関東、打倒トウショウボーイを果たした刹那、一人横綱テンポイントを負かすのはどの馬か? ファンの感情は変化し、潮目が替わったのである。しかしながら、テンポイントの負けに賭けた43%のファンですらこんな残酷な配当は望まなかったに違いない。ちなみに、平地での極量はテンポイントの死をきっかけに事実上封印されている。

◎奇跡は起きなかった
 第三中足骨開放並びに第一趾骨複骨折。
 獣医33人の総力を挙げた2時間の手術は成功した。全国のファンの願いもあって、テンポイントは奇跡を起すかと思われたが、43日後の3月5日午前8時40分、力尽きた。3月7日には栗東トレセンで我が国初のサラブレッドの告別式がおこなわれたのである。

さらば、テンポイント

もし朝が来たら
グリーングラスは霧の中で調教するつもりだった
こんどこそテンポイントに代わって日本一のサラブレッドになるために

もし朝が来たら
印刷工の少年はテンポイント活字で闘志の二字をひろうつもりだった
それをいつもポケットに入れて
弱い自分のはげましにするために

もし朝が来たら
カメラマンはきのう撮った写真を社へもってゆくつもりだった
テンポイントの最後の元気な姿で紙面を飾るために


もし朝が来たら
老人は養老院を出て もう一度じぶんの仕事をさがしにいくつもりだった
「苦しみは変わらない 変わるのは希望だけだ」ということばのために

だが
朝はもう来ない
人はだれも
テンポイントのいななきを
もう二度ときくことはできないのだ
さらば テンポイント

目をつぶると
何もかもが見える
ロンシャン競馬場の満員のスタンドの
喝采に送られてでてゆくおまえの姿が
故郷の牧草の青草にいななくおまえの姿が
そして
人生の空き地で聞いた希望という名の汽笛のひびきが

だが
目をあけても
朝はもう来ない
テンポイントよ
おまえはもうただの思い出にすぎないのだ
さらば
さらば テンポイント北の牧場にはきっと流れ星がよく似合うだろう

寺山修司『旅路の果て』より

番外編



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